POP Music ラプソディー

POP Music ラプソディー

なんか映画「ボヘミアン・ラプソディー」が流行ってますなw!

ターミナル21の映画館にて

 

ここバンコクでも大々的に上映されてます。(2018年11月現在)

タイでもごくごく一般的に知られている英米のロックミュージシャンってちょっと偏りがあるんですけどクイーンの映画がウケてるあたりはやっぱゲイに寛容な国となったタイでは親近感を持たれる人口が多いんですかね?

ちなみに僕はこの映画、観てません!たぶん今後も観ません!

僕の中ではクイーンは終わってしまった存在なのでもう30年ぐらいまともに聴いてませんし、ましてやその裏側のストーリーに興味を持つこともありませんw(実話にもとづいたフィクションだしね)

だからクイーンのことはよく知らないんです。これ他のアーティストでもそうなんですけど、僕はアーティストの活動中に発表された正規の「アルバム」にしか興味がないんですね。だから僕が最も愛するアーティストであるデヴィッド・ボウイのことも全く知りませんw たぶんコアな音楽ファンの人が「デヴィッド・ボウイも一応聴く」って程度にボウイを知っているとしたら多分その人の方が知ってますw このアルバムはボウイが何してた頃で参加してるミュージシャンは誰でそのミュージシャンは他のアーティストの何てアルバムでも演奏してるとかね、そんな風にみんな詳しいでしょ?

作家でもそうです。作家で言うと僕の人生に無くてはならないと言えるほどの人でヘルマン・ヘッセがいます。でも彼の作品を愛しているだけで、その人の歴史的なことはほとんど知りません。かなり前にヘッセ展がありましたが、それに行った人程も知りません。(つまりそれにも行ってないw)

僕、興味ないんすよホントに。だってそれは全ての人と同じようにすっごくプライベートで深~いものじゃないですか。いくらヘッセが好きでヘッセのいたドイツやスイスの場所を辿っても彼が見た、そして描いた美しい景色と同じものは見れないでしょ?同じ親に同じ時代に同じ国に同じ環境で同じ名前の同一人物になれなきゃそこに触れるのは虚しいんですよね。プライベートで深~い自分の人生を生きるのに届かない他人の人生覗いてる暇なんかないっすよ。

何かを創造する人から受け取れるのはその創造物を通してだけです。

というわけで、、、話が大幅にそれましたがクイーンですね、ハイ。知らないどころかじっくり聴いたのは一部のアルバム。しかも大昔。

でもその一部のアルバムを夢中で聴いていたことがあるんですよ。

で、今回の映画のブレイクにあやかって全く僕の独断と偏見による事実とも程遠いかもしれない僕なりのクイーン観をもって正式にクイーンにお別れを告げようと思ったのです。

詳しい(正しい)クイーンの歴史や音楽分析は音楽通のエライ人達のところでご覧くださいw

クイーンをリアルタイムで知ったのは「レディオ・ガガ」、つまり「ワークス」の頃です。なんかちょっとキモめのオジサンたちだなぁというのが最初の印象です。ノスタルジックでSFチックでもあり印象には残りました。

ところがその後、一緒のバンドでギターをやっていた友達にコレを聴いてみろと薦められて一緒に聴いたのが「ボヘミアンラプソディー」でした。

「なんだコレは!」

強烈な印象でした。その頃に知ったのは幸運でした。何となく誘われてコピーバンドみたいなのを始めて、まだロックをよく知らなくてロックのほんの入り口の扉を開けたような頃だったのでその音楽はめくるめく自由な世界でした。

当時すでにボヘミアンラプソディーは歴史を作った過去の音楽でした。つまりそれは僕が扉を開いたロックの世界にすでに用意されたものであり、そのボヘミアンラプソディーが約束した自由に飛び込むだけでよかったのです。

ロックというのはこんなに自由な音楽なのかとわくわくしました。それから主に「オペラ座の夜」と「JAZZ」を飽くことなく聴き続けました。

何故自由なのか?何故それが僕にとって重要なのか?

これは僕が好む音楽の根幹となるテーマなのでそのことについて少し書きたいと思います。

クイーンが最初のアルバムを出したのは70年代に入ってからです。(73年?) それまでのロックミュージック、いや、ロックンロールから振り返ると音は違えどブルースの進行に乗せて「彼女は僕に恋してるぜイェイ!」みたいなものが主流でそれからだんだん「昨夜アイツとハメまくったぜイェイ!」とか「ぶっ飛んでやりまくろうぜイェイ!」とかそんなんですねw

ロックというのはまぁ基本的にはレベルミュージックだと思うんです。何かに対する反抗ですね。でもそうして始めたロックミュージシャン、或いはリスナーだった人達も成長し、進化します。「オラッ!」とツバを吐きかけたそばから皆が寄ってきてパーティーの様に楽しんで踊っています。ツバの上で。流行りのカタチが出来上がっていきます。

やってた人達には葛藤が産まれるはずです。「何か違うんじゃね?」って。

そこにまた反抗するんですね。色んなカタチで。

もっと音を歪ませたり、他のジャンルを取り入れてみたり。若者がケツ振ってオーイぇ~いじゃなくて、もっとなんで葛藤してるのかの核心を突く音楽や、大人になってもっと高尚な音楽への欲求が出てきます。

ヘラヘラしたロックンロールという名のポピュラーミュージックは終わります。

60年代後半から急にその動きが顕著になりますよね?

ヒッピームーヴメントやベトナム戦争と重なってビートルズやキンクスやフーが様子を変えると同時期にアートロックやサイケ、プログレなどがブレイクし始めます。自由への葛藤が爆発した感じです。

でも葛藤は葛藤なのです。それは不自由さがベースです。やはりツバを吐いて、結果はオーイぇ~いです。(僕は個人的に大好きです)

そういった流れの直後ですね、クイーンが出てきたのは。

クイーンはある意味それにも反抗したかったんじゃないかな?と思うんです。ハイになってぶっ飛んだ音楽やしかめ面して哲学のように演奏する音楽じゃなく本当に自由な音楽を求めたんじゃないかなと。

奇をてらった排他的な音楽で葛藤と反抗の自己表明をするんじゃなくて、普通に、自然なカタチで自由に思ったことを音楽と詩にのせる。排他的である不自由を排除したらPOPな音楽に必然的になっていくと思うんですよね。

例えば一般的な日常の中で皆さんどう過ごされてます?

日常の場面場面を切り取ると結構おかしなことをしているもんです。会話の流れで突然歌い出したり、オペラ歌手の物真似をしてみたり、思い出したら急に腹が立って大きな声を出してみたり、外向きには常識的な態度で振る舞いながら内心でどうでもいいやと思ってみたり。

その瞬間だけ切り取ると結構奇妙な行動してますよねw でもそれ、みんなそうです。

そういう自由、そういう意味でのポピュラーを体現するような何かがクイーンにはあったと思います。

確かに当時流行っていたプログレやハードロックのようにバロック音楽などのクラシックを取り入れるなどのやり方はクイーンにもハッキリ目立ちます。でも使い方が全然違う気がします。それこそ日常会話の中でおふざけで自然にオペラの真似をするようにコミカルに突然入ってきたりします。こういう自由です。これこそPOPミュージックだと僕は勝手に思っています。これは奇妙だけど不思議と誰にでも届く表現です。

でも可笑しくないですかw?突然「おーままみぃあ~ままみぃあ~!」とか言い出すのw

ブライアンメイのギターだってアレ変態ですよねw あの音。昔バンドでクイーンのコピーやるときにギターのやつがハーモナイザーとか駆使して苦労してましたw 音楽通のエライ人たちにはアレはこうやって出してる音だとか常識なんでしょうけど僕にはわかりませんw どうでもいいです。とにかくあの音。奇妙ですよね。なのにキャッチーというかすんなり入ってくるんですよ。そう、あのブライアンメイの音もPOPだと思うんです。「フラッシュのテーマ」なんか最高じゃないですかw!

少なくともクイーンはそういうPOPな何かを意識していたと信じています。偏屈なのではなく意識的な反抗でもなく自由だから奇妙なのです。

「ボヘミアンラプソディー」なんて人殺しのことを歌ってるんですよw!特異なテーマを扱ったバンドは当時他にも沢山いますがどこか哲学めいてます。あんなにPOPに殺人者のストーリーを描いた曲ってなかなかないですよ。僕はその自由にも衝撃を受けました。誰かには実際起こっていることです。それを本人の目線で描くことも自由。精神異常的な話でなくちゃんとした心を軸に描かれています(フレディが移民の家系であることと関係してるようですけど我々聴き手には関係のないことです)。僕は気付かないうちに少なからず影響を受けていたようで、その何年もあとにそれとは知らず殺人犯を主人公にした曲を作ったのを覚えています。自分的にはレゲエやパンクの影響と思っていたんですがねw そんなことも描ける自由に密かに憧れていたんだと思います。(音源はありませんw)

クイーンにもゲスで反抗的な曲は沢山あります。でも「バイシクルレース」なんて聴いてみてください。「俺はハメたいぜ~!」の代わりに「自転車に乗りたいなぁ~♪」ですよw

※ここに「バイシクルレース」のPVを貼ってありましたが年齢制限の関係でやむなく削除しました。大人な皆さんは是非自分で検索して観てくださいw

それで「スーパーマンなんかにゃなりたくねぇ!」とさらりとハリウッド映画の商業主義なんかに反抗してます。つまり彼らのPOPはそういうPOPじゃないんですよ!

あえてスーパーマンを歌うならボウイのようにニーチェが指すところのスーパーマンを歌ったでしょうし、POPはPOPでもウォーホールを指すようなPOPであったと思うんです。

そういう意味でクイーンの音楽は当時のロックの革命の一端を担ったと思います。

僕の言うところのPOPミュージックを生涯やり抜いた人はデヴィッド・ボウイだと思っているのですが、ボウイとクイーン(フレディマーキュリー)に親交があったのはそういった共感があったからじゃないかな?と想像してます。

ところがその奇妙な音楽のせいで彼らは前衛音楽と比較され始めます。プログレというカテゴリーです。そこには彼らの求めている自由なロック(POP)はありません。プログレとしてはどうなんだ?と。「そんなの関係ねぇ!」と小島よしお風に一蹴したかったでしょうがメディアはほっときません。自由な彼らに葛藤が始まります。「もっとPOPな何かを体現しなければ」と(僕の勝手な想像ですよ?)。

そのことと、何か平和で物質主義バンザイ的な時代の流れによって彼らの音楽はよりイージーでポップな感じになっていきます。その時点でロックシーン全体が何をやったらいいかわからなくなってたんじゃないでしょうか?技術的に出来ることは出尽くした感があります。反抗も白々しくなってきた。ジョニー・ロットンは「ロックは死んだ」といいました。でも彼がやっていたパンクロックは僕にしてみればその死んだロックの死骸で出来た何かです。パンクは産まれる前から死んでいます。(言い訳しときますがパンクも大好きでしたw!)

ロックは死んだ、パンクは生きてもいない。ポップスが隆盛を極めその次に産まれたのは絶望です。

グランジやシューゲイザーの根には絶望のようなものを感じます。何かを望むがもう何もないことへの葛藤と絶望です。

僕が思うにクイーンがあのまま自分たちの自由を貫いていたらもう少しだけロックの状況が違っていたんじゃないでしょうか。

アンダープレッシャーの制作過程でボウイと揉めたというのもなんとなくわかる気がします。

※「バイシクルレース」の代わりに貼りましたw 記事の質が下がる...w

最後のイニュエンドウはいかにもクイーンらしいアルバムに戻ってる気がしますが、僕にはつかみ損ねた何かのように聴こえるので好んで聴きませんでした。

でも彼らの成したことは大きいし、僕個人の音楽の世界を拡げてくれたことにはずっと感謝しています。それからいろんな音楽を貪るように聴いたのも彼らのお陰だと思います。

僕の言うところのPOPミュージックには普遍性があります。ロックは基本、刹那的な音楽です。そこに普遍性を見出だすにはPOPであるしかないと思っています。

僕の個人的な趣味ですが、今そんな風に難しいことを考えずPOPな音楽をやれていると思えるのってBECKやデヴェンドラ・バンハートとかぐらいかな…?

なんかタイ在住者のブログなのに全然タイ関係ない内容ですなw

とにかく。クイーンに感謝!もう聴かないし映画も観ないけどありがとよ!