文脈を失った時代 テレビ~YouTubeへの流れの中に見る迷走と喪失感

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テレビがつまらなくなったと言われて久しい。

今や若い世代はテレビを見ずにもっぱらYouTubeを見る。いい歳をした僕自身もテレビは見ない。

 

どうしてそうなったのか?テレビよりもYouTubeが優れたプラットフォームで優れたコンテンツに溢れているからだろうか?

否。

単なる時代の変化、テクノロジーの発展の結果なのか?

否。

 

僕にはそう単純に割り切れない。

多くのテレビ関係者が奇しくもYouTube上で漏らす話の中に必ず出てくるのは80年~90年代頃のテレビは面白かったという話。

何でもアリ。コンプラなんて関係なし。裸もアリ、ものも壊す、大怪我をするようなことをやる、差別的な笑いのネタがあったり、過剰にお金をかけて派手な演出をしたり、とにかくめちゃくちゃで面白かったと。

 

あたかもテレビの輝かしい時代のように話す様をよく目にする。

 

そしてスポンサーに依存しているが故にコンプラの問題がどんどん厳しくなって・・・という一様に同じ見解である話になる。

 

問題があまり見えていないように映る。

 

逆に言えば何故当時は面白かったのか?同じことが今出来ればやっぱり面白いのか?

そこが甚だ疑問であることに着眼点が至っていないような気がする。

 

一つ言えるのはそういうポイントで言うとテレビをつまらなくしたのはその当時の面白かったテレビのせいであるということ。

やりすぎてコンプラが厳しくなったとかそういうことではない。

何故当時ああいったテレビ上の過激なコンテンツがウケたのか。

 

ここが重要。

 

もっと昔に遡るとテレビやラジオだけが大衆の娯楽で大人も子供もみんながかじりつきで楽しんでいた時代がある。

大映ドラマみたいなのがあったり、誰もが歌える歌謡曲があったり、そしてそこに映る人達は皆神格化されていて虚構の世界に皆が目を輝かせていた時代がある。

もっと遡れば劇場や小屋や広場で行われていた大衆演芸の数々などがあったわけだが、それらに共通するものといえば、受ける側の、つまり聴衆・観衆・一般大衆の根底にある文脈である。

 

どういうことかというと事の「良い悪い」はともかくとして、お父さんお母さんがいて、祖父母がいて兄弟がいて、毎朝の「おはよう」や「いただきます」「ごちそうさま」があって、親戚がいて、ご近所さんがいて・・・。

そういうものが当たり前で大衆や家族の中に当たり前のものとしての良識が(それも一つの幻想かも知れないが)あって、その身に染み付いた文脈に沿った娯楽が提供されていたのである。

 

その倫理観や家族愛や郷土愛や目上を敬うような文化、あるいは「目上」が絶対的な権力を持つような文化。

 

80年代頃からの派手で爆発的に盛り上がったテレビ上の娯楽も例外ではなくその文脈があってこそ成り立ったものだと思っている。

ただしそれまでのようにその文脈に沿った娯楽ではなく、その文脈があるのが「前提」で「それを壊すという面白さ」に走った。

 

人々の根底に根付くその文脈、倫理観のようなものからはみ出してしまう驚きや爽快感。逸脱する快感。

「これは娯楽ですよ」というカタチのもとに大衆を刺激してヒステリーを呼び起こしてそれを興奮気味の笑いに変換したのが当時テレビがこぞって提供していた娯楽なんだと思う。

 

問題はテレビ屋さんたちがそれをそのままにしてもとの文脈に戻すべく回収しなかったこと。

コンプラ云々と言われる中、結局それをどうかいくぐってひと時代前の輝かしいどんちゃん騒ぎを再現するかに一様に注力していたこと。

世間の様子が変わっても向かうベクトルが変わらないまま。

 

そこでそれまでの大衆の中に根付く文脈を見失ってしまったのではなかろうか?

 

それは見る側も同じことで、やはりその文脈を見失ってきたのだと思う。

もうずっと昔の「お茶の間」は無い。

 

ドリフターズでは笑えない。

世の倫理観はいびつになり、人のつながりは希薄になる。

 

経済が傾いて孤独が増し、情報だけが氾濫する。

 

そんな背景の中で産まれた娯楽の一つがYouTubeだが、その普及率から言ってもプラットフォームの性質から言っても大衆に新しい文脈を持たせる新しい「文化」になり得たであろうにYouTubeもまたテレビと同じ二の轍を踏んでいる。

 

過激さを求め、倫理観を壊し、量産された挙げ句コンプライアンスによる規制や抑圧を受けてそのベクトルはごく単純に「お金」に向いている。

発信する側も見る側も。

 

「お金」が「夢」で「かっこいい」ものという歪んだベクトルが発信する側にも見る側にも、そしてその環境を提供している企業にとっても共通項である「正義」の様になってしまった。

ネットの普及によって情報は洪水のように溢れ返っているが、そこから産まれる新しい言葉やツールを使っていかにも最先端でひらめきがあって難しい闘いをしている体で誰かが損をした上澄みを奪い合うことが世の本流となってしまっているという悲しい結果である。

 

いろいろもっともらしい言葉で溢れ返っている。サスティナブル?SDGs?NFT?LGBT?多様性という最も偏狭な言葉。

 

全部を一言でいうと「金欲しい」だ。

 

 

文脈を欠いているのだ。

そもそもの「幸福」とは?

その定義とは?

その模索は?

 

そしてその中での「娯楽」とは。

 

もう満足はしない。

そもそも「何を」満足させたらいいのかを見失っている。

そんな気がするわけです。

 

だから大きな流れとしてはYouTubeも大衆が手に入れることのできる娯楽としては破綻しているわけで、そのうち何か別のものに取って代わられるでしょう。

 

もうその破綻した主流には期待できないように思うので、テレビにしてもYouTubeにしてもなんか脇の方で本質は過去のものに「似た」今なりの「文脈」を以て「娯楽」あるいは「文化」を細々と繋いでいるようなものに期待するべきではないかなぁと思ったりしている。

 

いわゆるテレビ、民法放送局ならテレ東ぐらいしか可能性を感じないなw

 

 

抽象的で伝わりづらい話だろうからこの辺で独り言として終わりたいと思う。

ではまた。