何となく好きなタイで生活して、働いて、思うこと。

何となく好きなタイで生活して、働いて、思うこと。

タイ生活も5年半を越えた。

その最初からぼんやり感じていた事がハッキリ見えてきたんで綴っておこうと思う。

 

いつも通りただの主観であって、根拠となる数字やデータやそのソースがあるわけじゃない。

漠然と思うことであって誰かの参考になるとも思えないが、的は得ているはずなので興味を持ったら読んでもらえればいい。

 

住んでいるのはバンコク。バカみたいにカオスな大都会だ。

元々南部の観光地クラビが好きでバンコクなんか来たことはなかった。

都会が好きではない。

バンコクは急速に発展し続けている。

 

バンコクに住み始めて1年程で職を変えた。

タイ人ばかりの飲食業。

 

タイ人とべったり仕事を共にする生活がそこで始まった。

 

マイペンライな国?

 

まあそういうこと。

でもそれはそれで仕事をこなしていくには結構な問題が山ほどある。

 

日本人にとってのタイ。あるいはタイ人。いくつかパターンがある。

観光で来て、わー笑顔でいい人ばっかり!とか飲んでゴルフして女遊びしてって野郎どもには金で買えるちょっと出来の悪いなにか。

中にはハマって金を注ぎ込んじゃってるイタい人。そして仕事でタイ人を使ってる日本人は表向きどんなにいい事を言っても実際は仕事にイラつき、心底タイ人をバカ扱いしてる。

これが現実。

なんでだろうね。

 

ヒントになる話を小耳に挟んだ。

タイ人には読解力がなかったりする。その能力が極端にかけるという。

それもどうやら単純な偏見や先進国の傲りや見下しというだけではなく何となくの根拠もあるらしい。

文語はともかく口語の簡略化だとか、教育の過程、文学(というより一般的な読物?)などに見て取れる問題があるらしく、まず作文や読書感想文、それに関わるディスカッションなどは学校教育の中に組み込まれていないという。

そして何よりタイ語の多くの書物に筋道立った起承転結のあるもの、論理的な道筋を辿って結論や結果に至る物語などが見事なまでに無い。皆無と言ってもいいぐらいと聞いた。

だから論理的思考で結論を求めたり結果に導いたりする訓練が出来ていない。

近年ではそのことが心配で洋書、或いは翻訳モノの書物を好んで読んだり子供に読ませたりするタイ人が増えてきてるらしい。

 

そういったことはタイの現代社会にかなり影響を及ぼしてる。仕事をする上で建設的な話が成り立たないんだから。

1つの企画があっても、創案者が例え入念に考え尽くしたアイデアであっても、まずそれを最後まで結論づけて理解してもらえるようには伝えられない。そういうふうに伝える能力が少し足りない。

 

また、例えその創案者、企画者にその能力があっても聴く側は最後まで聴いていられない。論理立てて順序を追って結論に至るというプロセスになれていないからだ。話の経過を理解することも先を読むことも真意を読み解くことも面倒になる。

タイ人は話をしないのかって言ったらそりゃあもう喋る喋る!仕事の打ち合わせやミーティング、ブリーフィングで5分で済む話に1時間はかかる。

何故、何を、どういう風に話す必要があるのかが念頭にないから。

 

では物事が決まらないのではないか?と思うだろう。

 

ところがさっさと決まる。理解し、納得する前に決まる。面倒だから。責任を持ちたくないから。

そして決まったことに対してうろ覚えで勝手に都合のいいようにカタチを変えていく。

同じ社内での決め事だけじゃない。仕事を受発注している取引先間でもそれが起こる。

 

これは田舎出の出稼ぎの連中でも都会っ子の大卒や大学院出でも同じ。

そんな調子で世の中が回ってる。

 

仕事は思いつきで始める。ダメなら自分以外の何かのせいにしてさっさと辞める。

自分で始めた事業でも同じことをする。

 

ここまでの見解からするとまるでタイ人はバカだ。

 

果たしてそうなんだろうか?

 

俺が思うにここはもっと根本的な問題に目を向けるべきだと思う。

同じ人間である。バカかどうかってのはドングリの背比べだ。

根付いているものに違いがある。

何が違ってどう今に至っているのか?

 

例えば何処かの奥地の未開の土地で文化、文明を極端に排除、排他的に生きてきた少数民族があるとして、彼らが不幸か?そしてバカなのか?ということである。

彼らにしてみたら我々の方がバカで不幸であるのは明らかではないだろうか。

 

なんせスマホが無けりゃウンコしたあとの自分のケツも拭けない程のバカで、その精密機械で出来た便利なお尻ふきを片時も手放したくないが為に疲れ切って、時に奪ったり殺したり死んだりする程の到底理解しようのない程の不幸を抱えた奴らが我々である。

 

そういう視点を持って改めてタイという国を、歴史的観点ではなくもっと人や風土から受ける印象から見てみよう。

 

そもそも読解力ってそこまで必要なものなのか?

面倒くさいこと言ってないで笑えよって話。

我々が真剣に追っているものは平たく言えばお金である。

 

世界的な「価値」の基準であるが、宇宙的には樹木や鉱物資源を全くなんの価値もないものに作り変えられてしまった同じ形をした大量の、しかも宇宙から見れば塵屑と呼ぶより微細で僅かなもの。

それが客観的に見た「お金」である。

 

それを得る為に難しい顔をしてあーだのこーだの。

 

それに自らをすり減らしてでも「宇宙的には」なんの価値もないお金を得ることと、そのへん適当で得るものも大したことないけど自らをすり減らすこともなく笑っていることとを比べたら?

後者の方が人として正しく、賢いのではないか??

 

そういうクソみたいなマインド、勝つか負けるか、生きぬくか生き残るか、どうやったら人より良い飯がくえるのか。それが運良く「根付かなかった」のがタイ人と言える気がする。

とは言え世の流れは必ずしもそうではない。タイ人には自分たちがどういう土壌のもとに生きてきたかを意識するすべも無い。

 

世が右を向けば、一応右を向いてみるのである。

そしてその方向で負けていれば負け惜しみも言うのである。

そして中途半端に真似事をして、他人のふんどし(外資系の産業)で自分の相撲を取ろうとするのである。

 

真似をしてそのままそのようには出来ずに適当なことをして、それをオリジナリティーでありタイスタイルだとか言い始める。

そんなわけあるかいw!

 

アンタらは出来ねぇんだよっw!

 

そして出来ないほうが人として正しいんだよ。

 

食い物もそのサービスも機械も車もそのソフトも娯楽も、無くたって死にゃあしないのがアンタらなんだよ。

 

水と作物と暖かい気候、その中で生きる動物。

飢えないんだよね、タイって国は。

 

生きるにあたっての深刻さは要らない国。

そしてうまい具合に生活レベルに根付いた仏教は分け与えよと言う。

 

タイには深刻さがないのか?

あるよ。

 

生活苦や借金苦で自殺者だっている。

 

でもそれって他所から来たやつらが自分トコの金持ち込んでこねくり回さなかったらそこまでなかったんじゃねーかな?

 

放っておくべきだしタイ人自身も出来ねぇってことを自覚するべきだよ。

所謂先進国気取りの国々がてめぇんとこのカネ持ち込んでやってるのは他所の土地耕して儲けるってことだけで土地が痩せようが荒れ地になろうが知ったこっちゃない。そうなりゃ違う場所耕すだけ。

 

そんな風に思う。

 

だからホントのところを言えば、俺自身この国にお邪魔してる場合じゃねーし、外資に関わる仕事もしてる場合じゃねーし、デカイ商業施設やコンドが建って便利だなぁなんて浮かれてる場合じゃないってこと。

だから屋台が無くなるとか市場が無くなるなんて話になるんだ。

 

世界って規模のお金という構造に飲み込まれる。

 

金のシステムってのは簡単に言ってやっぱりピラミッド型にできてる。底辺に生産するものがいて、てっぺんにそれを集めて回すようにできている。

 

例えば持つ者が持たざる者に金や土地を与える。

 

だがちょっと待て?そもそも土地ってなんだ?

地球の地表だ。誰のものでもない。

金ってなんだ?

架空の数値に過ぎない。

架空ということは、ないところから決めているものが勝手に決めれるものだ。

 

産む必要がある時、持つものはこう言う。

「土地がないのか?ではこの土地をやろう」

「金がないのか?ではこの金をやろう」

土地はそもそもその持つもののものですらない。勝手に誰かがそう決めただけのものだ。

それをやると言う。

金に至っては存在しないものだ。奴らはそれを刷る。

無きゃあ刷ればいいわけさ。

そしてそれをやると言う。

 

その後にこう続く。

「さあお前は我々によって土地も金も手に入れた。その金を使って我々から道具を買い、我々から与えられたその土地を耕せ」

「与えられた分は返すのだ。今やお前は持つものなんだから」

そうして持たざるものは恩を着せられ懸命に土地を耕す。

来る日も来る日も。

それでも足りない。

いくら生産しても返すのに精一杯で自分たちが食うのにも困るようになる。

 

持つものは言う。

「そうか、食っていけないか。それではわかった。お前のものである最初にやったその土地と金を返せ。なあに、安心しろ。奪い去りはしない。ただそれらがお前の所有物ではなくなるというだけだ。これからも私の土地を耕し、そこから私の金を返し、そこから食っていけばいい」

 

これがどういうことかわかるだろうか?

誰のものでもない土地を与え、存在しなかった金を刷って与え、最終的には最初に与えると言った者のハッキリとした所有物として公的に認められ、尚且その持たざるものがそいつらのために今後も生産し続けるということになるのだ。

 

今の世界の構造はざっくり言えばこう言う詐欺的なことを礎に成り立っている。

 

俺の感覚では、タイやアジアのいくつかの国の風土はこの構造に染まりきれていない。そこが重要だ。

 

タイ人はもっともらしい理屈をあーだのこーだのこねくり回すのは上手くないかもしれない。

だが抜きん出た感性が見受けられることは多々ある。

例えば絵を描く能力などは平均的に高いと思う。絵を習う学生の多くが非常に緻密な絵を描く。

 

音楽もそう。タイの民族音楽や古典音楽はあまり目立たないが素晴らしい。

 

いつも喋って、笑っている。深刻さがない。

物乞いにすら悲壮感がない。スラムですら。

 

自然のものを食べ物として実に上手く利用している。

そうして道でモノを売る。

売れても売れなくてもとりあえず冗談ぐらいは言っとく。

 

誰かが食えなきゃ誰かが与える。

 

彼らはそうあるべきだし、そうあって初めて光を放ち、敬意を集める。

それは留まる術さえ失った世界を突き動かしている何かとは性質的に相容れないものだ。

 

 

正直バンコクはもはやタイではない何かだ。

そこに俺は住んで歯車の隅っこの方で適当に何かをこねくり回しながらバンコクではないタイを眺めながらこの国でどう生きていけるのか、違和感にタイのナムプリックをつけて飲み込みながら日々ぼんやり考えてる。